今回は江戸時代初期、江戸幕府の成立から鎖国までを取り上げています。
江戸時代初期(鎖国の頃まで)の年表、関ヶ原の戦い、江戸幕府の仕組み、参勤交代、鎖国とその目的・影響について学習します。
基本事項を覚えられたか、よかったら確認問題でチェックしてみてください。
江戸時代初期の年表
関ヶ原の戦いから鎖国成立の頃までの年表を見てみましょう。
- 1600年 関ヶ原の戦い
- 1603年 徳川家康が征夷大将軍に(江戸幕府の成立)
- 1605年 徳川秀忠が2代将軍に
- 1609年 平戸でオランダとの貿易が始まる
- 1612年 キリスト教禁止令
- 1613年 慶長遣欧使節(仙台藩主伊達政宗が支倉常長らを欧州に派遣)
- 1614年 大阪冬の陣(徳川軍・豊臣軍の戦い)
- 1615年 大阪夏の陣(豊臣家がほろびる)
- 武家諸法度、禁中並公家諸法度が定められる
- 1623年 徳川家光が3代将軍に
- 1633年 奉書船以外の渡航が禁止
- 1635年 海外への渡航が禁止
- 1637年 島原・天草一揆
- 1639年 ポルトガル人の来航禁止
- 1641年 平戸のオランダ商館を長崎の出島に移す
江戸幕府の成立
豊臣秀吉亡き後、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利して江戸幕府が開かれました。秀吉には子どもがいましたが、大阪の陣で豊臣家は滅びます。
関ヶ原の戦い
秀吉の死後、権力争いで石田三成(豊臣政権で五奉行)と徳川家康(豊臣政権で五大老)が対立、1600年に美濃の関ヶ原(岐阜県)で関ヶ原の戦いが起こりました。
関ヶ原の戦いは1日で決着、徳川家康率いる東軍が石田三成ら西軍(豊臣方)を倒しました。家康が政治の実権を握り、1603年将軍に、江戸幕府が開かれました。
東軍
[総大将] 徳川家康・秀忠・福島正則・細川忠興・井伊直政・黒田直政・山内一豊・池田輝政など
池田輝政は姫路城を築城したことで有名です。
信長の弟、織田有楽斎も東軍に参加しました。有楽斎は千利休の弟子でもあり、晩年は茶人として生きました。
西軍(豊臣方)
[総大将] 毛利輝元・石田三成・宇喜多秀家・島津義弘・小西行長・大谷吉継・長宗我部元親・小早川秀秋など
総大将の毛利輝元は合戦には参加しませんでしたが、一時領地を没収され、減封されました。小早川秀秋は合戦当日に東軍に寝返りました。石田三成は捕らえられて処刑されます。
豊臣氏(秀頼と淀殿)
豊臣秀吉の側室が淀殿、その子が秀頼です。淀殿は近江の戦国大名である浅井長政とお市の方(信長の娘)の娘です。関ヶ原の戦い当時は秀頼はまだ幼く、敗戦した西軍は豊臣方でしたが、秀頼は合戦に参加していません。
幕藩体制
幕府の直接の支配地(直轄領)である幕領は約400万石、旗本、御家人の領地と合わせると全国3000万石の約4分の1になりました。
幕府と藩によって全国を支配する政治体制のことを幕藩体制といいます。
【旗本】幕府が直接支配した家臣、1万石未満、将軍に直接会える
【御家人】幕府が直接支配した家臣、領地を持たない、将軍に直接会えない下級の武士
【大名】1万石以上の武士、殿様
【藩】大名の領地・領民・その支配組織
「石(こく)」は米の量を表し、成人男性が食べる1年分の米の量がおおよそ1石にあたります。
親藩・譜代大名・外様大名
- 【親藩(しんぱん)】徳川の血をひく大名。紀伊・水戸・尾張の御三家。
- 【譜代(ふだい)大名】関ヶ原の戦いより前から徳川家に仕えていた大名。
- 【外様(とざま)大名】関ヶ原の戦い以後徳川家に仕えた大名。
譜代大名は幕府の中で重要な職につくことができたのに比べ、外様大名は重職につけず、都から遠い領地を与えられました。
江戸幕府の仕組み
江戸幕府では将軍のもとで政治全般を担当したのが老中です。大老は事件が起きたときなど、臨時の職として置かれました。
老中のもとに大目付、町奉行、勘定奉行、遠国奉行が置かれ、老中の補佐に若年寄が、旗本と御家人の監視に目付が置かれました。
大阪の陣
方広寺鐘銘事件(鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」に家康が激怒)をきっかけに、幕府と豊臣氏が対立、1614年に大阪冬の陣が、1615年に大阪夏の陣が起きました。大阪の陣で淀殿、秀頼は死に、豊臣家は滅びました。
武家諸法度と禁中並公家諸法度
大阪夏の陣があった1615年、将軍秀忠は武家諸法度(ぶけしょはっと)と禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)を定めました。
- 【武家諸法度】大名に対して。学問と武芸の奨励、城を築くことを禁止、幕府の許可なしに大名が結婚することを禁止。
- 【禁中並公家諸法度】朝廷に対して。政治に介入しない、学問の奨励。
参勤交代
参勤交代の制度が3代家光のときに制定されました。大名は1年おきに江戸と領地を往復、妻子は江戸に人質として住むように定められました。参勤交代で大名の経済力を弱めて、反抗させないようにすることがねらいでした。
【参勤交代の制度】
・大名は1年おきに江戸と領地を往復すること。
・大名の妻子は人質として江戸に住まわせること。
鎖国の成立~その目的と影響
家康の時代は海外渡航が許されていましたが、家光は海外への渡航、また海外から来航も禁止し、鎖国を完成させます。
朱印船貿易
家康は朱印状を発行して、海外渡航を許していました。西日本の大名や商人が朱印船を送り、商人や浪人、キリシタン(キリスト教信者)が東南アジアの各地に移住、日本町(にほんまち)が作られました。
鎖国の完成
長崎の平戸ではオランダとの貿易が始まっていました。しかし3代将軍家光の時代に奉書船以外の渡航が禁止、海外への渡航が禁止に、さらに1639年にはポルトガル人の来航が禁止され、江戸時代の鎖国が完成されました。※鎖国を海禁政策とも呼びます。
平戸にあったオランダ商館は出島に移されます。オランダと清(中国)はキリスト教の布教をしないため、オランダと清とのみ貿易が続けられました。
ただし鎖国と言っても長崎以外に松前、対馬、薩摩でも貿易が行われていました。
【長崎以外の貿易】松前→蝦夷地、薩摩→琉球王国、対馬→朝鮮
島原・天草一揆
島原・天草一揆とは、1637年に島原(長崎県)・天草(熊本県)地方のキリスト教信者が、天草四郎時貞を大将として起こした一揆のことです。
→ 幕府が大軍を送り半年かけて鎮圧。その後キリスト教の取り締まりを強化、絵踏(聖母マリアやキリストが彫られた絵を踏ませる)、宗門改が行われました。
鎖国の理由、メリットとデメリット
島原・天草一揆が起きたように、キリスト教徒の団結力、幕府への反抗が恐れられ、キリスト教を布教する国との貿易はやめるようにしたこと、さらに幕府が貿易の利益を独占するねらいもありました。
江戸時代はあまり外国から攻撃されることもなく、国内では長く平和な時代が続き、独自の文化も発展したことはメリットとでしょう。しかし世界の進んだ技術や文化を取り入れられず、日本は世界から遅れをとってしまったことはデメリットと考えられます。
【問題編】江戸時代(江戸幕府の成立~鎖国)
問1 1600年、東軍の徳川家康が西軍の石田三成に勝利した戦いを何というか。
答えを確認問2 問1の戦いが行われた場所は、何県か。
答えを確認問3 家康が将軍に任命されたのは何年か。
答えを確認問4 家康の後をついだ、第2代将軍は誰か。
答えを確認問5 江戸幕府の直轄地である幕領、旗本・御家人の領地を合わせると、全国の石高の約何分の1になるか。
答えを確認問6 豊臣氏が滅びることになったのは( )の陣である。( )に入る地名を答えなさい。
答えを確認問7 幕府が直接支配し、1万石未満で将軍に直接会えた家臣を何というか。
答えを確認問8 将軍のもとで幕府の政治全般を担当した役職を何というか。
答えを確認問9 問8のもとで、江戸の取り締まりにあたった役職を何というか。
答えを確認問10 関ヶ原の戦いより前から徳川家に仕えていた大名を何というか。
答えを確認問11 関ヶ原の戦い以後徳川家に仕えた大名を何というか。
答えを確認問12 1615年、大名の統制のために出された法を何というか。
答えを確認問13 幕府と藩によって全国を支配する政治体制のことを何というか。
答えを確認問14 3代将軍家光が定めた、大名の妻子は人質として江戸に住まわせて、大名に1年おきに江戸と領地を往復させた制度を何というか。
答えを確認問15 海外渡航の許可証として、徳川家康は何を発行したか。
答えを確認問16 問15の許可証を与えられて行われた貿易がきっかけで、東南アジア各地にできた日本人が移住してできた町を何というか。
答えを確認問17 1637年、九州地方でキリシタンが天草四郎時貞を大将として起こした一揆を何というか。
答えを確認問18 1639年、家光は( )人の来航を禁止した。( )に入る国名を答えなさい。
答えを確認問19 1614年、平戸にあったオランダ商館を長崎の( )に移した。( )に入る地名を答えなさい。
答えを確認問20 問19の場所で貿易が認められたのは、オランダとどの国か。
答えを確認まとめ
江戸幕府成立~鎖国までの流れを確認してきましたが、いかがでしたでしょうか。
室町時代後半は下剋上の風潮でしたが、江戸時代では徳川家が長く続くようなさまざまな政策がとられたことがうかがえます。
江戸幕府がどうやって成立し、鎖国までどのような道のりがあったか、流れをつかんでおきましょう。