今回は明治時代の自由民権運動を中心に学習します。
武士の特権がなくなったことから士族の不満が高まり、士族の反乱が起きるなか、各地で自由民権運動が展開されるようになりました。板垣退助は国会開設を政府に要求、板垣や大隈重信は政党を結成しました。
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明治時代(1873-1884年)年表
- 1873年 徴兵令/地租改正/明治六年の政変(征韓論派が敗れる)
- 1874年 民選議院設立建白書
- 1875年 千島樺太交換条約(千島列島を日本領、樺太をロシア領にする条約)/江華島事件
- 1876年 日朝修好条規
- 1877年 西南戦争
- 1878年 大久保利通暗殺
- 1879年 沖縄県設置
- 1880年 国会期成同盟結成
- 1881年 国会開設の勅諭/板垣退助らが自由党を結成
- 1882年 大隈重信らが立憲改進党を結成
- 1883年 鹿鳴館を開館
- 1884年 自由党解党/秩父事件
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自由民権運動の高まり
明治時代に入ると自由民権運動が各地に広がります。
征韓論争
1871年 日清修好条規を結ぶ → 日本と清の対等な条約(朝鮮が不満、日本との国交拒否)
西郷隆盛、板垣退助は武力で朝鮮を開国させようとする征韓論を主張しましたが、論争に破れ失脚します(明治六年の政変)。
その後江華島事件をきっかけに朝鮮にとって不平等な日朝修好条規を締結します。
江華島事件 … 1875年に日本の軍艦が朝鮮の江華島付近で砲撃されたことがきっかけで起きた武力衝突。
士族の反乱と西南戦争
明治政府は新しい身分制度を作って徴兵令を出し、武士(士族)は帯刀や俸禄などの特権を失いました。このことで士族の政府への不満が高まります。
1874年に佐賀の乱、1876年に秋月の乱、神風連の乱、萩の乱など、士族の反乱が西日本で起こります。
1877年には西郷隆盛の軍(鹿児島の士族)と政府軍が戦い、西郷隆盛は自決しました(西南戦争)。
同じ薩摩藩出身の大久保利通も翌年不平士族により殺されます(紀尾井坂の変)。
民撰議院設立の建白書~国会開設の勅諭
征韓論に敗れて政府を去った板垣退助、後藤象二郎らは、1874年に民撰議院設立の建白書を政府に提出し、国会開設を訴えます。
1877年の西南戦争後、言論での自由民権運動が発展、藩閥政治への批判がされました。1880年には全国の代表者(商工業者や豪農も参加)が大阪に集まり、国会期成同盟が結成されました。
政府は新聞紙条例、集会条例を出して弾圧しました。
1881年には国会開設の勅諭が出され、10年後に国会が開かれることが約束されます。(大隈重信は政府を追い出されます。)
板垣退助は1881年に自由党を、大隈重信は1882年に立憲改進党を結成します。
- 板垣退助 → 自由党(1881年)
- 大隈重信 → 立憲改進党(1882年)
1880年代は自由民権運動が激化、1884年には秩父事件(埼玉県秩父郡、農民や自由党員による武装蜂起)なども起こりました。
自由民権運動の歌、「オッペケペ節」も流行りました。
【問題編】明治時代 士族の反乱~自由民権運動
問1 西郷隆盛、板垣退助らが、武力で朝鮮を開国させようとした考えを何といいますか。
答えを確認問2 江華島事件をきっかけに、1876年に朝鮮と結んだ条約名は何ですか。
答えを確認問3 1877年に西郷隆盛が中心になって起きた、士族の反乱を何といいますか。
答えを確認問4 1874年、板垣退助によって出された、国会開設を求める意見書を何といいますか。
答えを確認問5 明治時代に国会の開設や憲法の制定などを政府に求めた運動を何といいますか。
答えを確認問6 1880年、国会開設を求めるために、大阪で結成された政治結社は何か。
答えを確認問7 1881年に出された、10年後に国会を開設することを約束したものを何といいますか。
答えを確認問8 1881年、国会開設に向け、板垣退助らが結成した政党を何といいますか。
答えを確認問9 1882年、大隈重信らが結成した政党を何といいますか。
答えを確認問10 1884年、埼玉県で農民が武装蜂起した事件を何といいますか。
答えを確認まとめ
特権が奪われた士族は藩閥政治への不満を持ち、反乱も起きるようになりました。しかし西南戦争で西郷隆盛が敗れたことで、武力ではなく言論での自由民権運動が高まります。
政府を出た板垣退助は民撰議院設立建白書を提出したり、大阪では国会期成同盟が結成され、商工業者や地主もこれに参加しました。
政府は自由民権運動を弾圧しつつ、国会を開くことを約束します。板垣退助や大隈重信は政党を結成、1880年代は自由民権運動が激化します。
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