今回はペリー来航後、江戸時代の終わり(江戸幕府の滅亡)までを学習します。
松平定信の寛政の改革の頃にもすでにロシアのラクスマンが根室に来て通商を要求してきたり、長らく鎖国政策をとっていた幕府も異国船打払令や薪水給与令を出すなどの対外政策が必要となりました。
また幕府の改革がうまくいかず、幕府へ不満を持つものも現れ、反乱が起こることもありました。
どのように江戸幕府が終わっていったのか、ペリー来航から将軍慶喜による大政奉還、戊辰戦争までの時期の、年表や出来事の内容を確認してみましょう。
江戸時代(ペリー来航~幕府の滅亡)の年表・出来事
ペリー来航以前には次のような出来事がありました。
- 1792年 ロシアのラクスマンが根室に来航、通商を要求
- 1804年 ロシア使節のレザノフが長崎に来航、通商を要求
- 1825年 異国船打払令が出される
- 1837年 モリソン号事件
- 1842年 薪水給与令が出される
18世紀末頃からたびたび海外の船が日本に近づいていました。
ペリー来航~幕府滅亡までの年表
- 1853年 アメリカのペリーが浦賀に来航/家定が13代将軍に
- 1854年 日米和親条約を締結
- 1858年 井伊直弼が大老に就任/日米修好通商条約を締結/安政の大獄(~1859年)/家茂が14代将軍に
- 1859年 吉田松陰らが処刑
- 1860年 桜田門外の変
- 1862年 皇女和宮が将軍家茂と結婚/生麦事件
- 1863年 下関戦争/薩英戦争
- 1864年 第1次長州征伐/四国艦隊下関砲撃事件
- 1866年 第2次長州征伐/薩長同盟
- 1867年 慶喜が15代将軍に、政権を返上(大政奉還)/王政復古の大号令
- 1868年 戊辰戦争
ペリーの来航と開国
アメリカのペリーが1853年に浦賀に来航(黒船来航)、開国を要求しました。1年後に返事をすると幕府は約束しました。
アメリカの目的は?
・中国との貿易の中継地
・北太平洋の捕鯨船の寄港地・漂流船救助
日米和親条約
1854年にペリーが再び来航、日米和親条約を締結し、下田(静岡県)と函館(北海道)を開港します。また薪水・食料の供給、下田に領事の駐在も許可します。
1856年には下田に初代総領事としてハリスが着任し、日米修好通商条約を結びます。
日米修好通商条約
1858年、日米修好通商条約が結ばれました。(大老井伊直弼のとき)
・函館、新潟、横浜(神奈川)、神戸(兵庫)、長崎の5港を開港(下田の領事館は閉鎖)
・治外法権(領事裁判権)を認める
・関税自主権がない
領事裁判権とは、外国人が罪を犯したときに領事が裁判を行うことです。関税自主権がないため、外国から輸入するときは相手国と相談し、関税の税率を相談して決めなければなりませんでした。
この日米修好通商条約は朝廷の許可なく結ばれました。岩倉具視ら多数の公家が日米修好通商条約を締結することに反対し、孝明天皇は条約締結を拒否しました。
開国後の日本
貿易が開始されたことにより、安価な綿製品が大量に輸入、生糸、お茶の値段が高騰します。商人による米や生糸の買い占め、金の流出と銀の流入を防ぐために質の悪い万延小判が発行、インフレを招いて経済が混乱します。
下級武士、庶民の暮らしは大打撃を受け、幕府への不満が高まります。
→世直し一揆、打ちこわし、「ええじゃないか」
安政の大獄と桜田門外の変
13代将軍家定は子ができず、将軍継嗣問題で慶喜を推す薩摩藩主の島津斉彬ら一橋派と、徳川慶福(のちの家茂)を推す大老の井伊直弼ら南紀派が対立していました。
1858年、井伊直弼は幕府を批判する者を厳しく処罰(安政の大獄)、長州藩士の吉田松陰らが殺されました。後に将軍となる徳川慶喜も日米修好通商条約を締結した井伊直弼を詰問したかどで、謹慎処分を受けました。
井伊直弼はもと水戸藩の藩士によって、殺されてしまいます(桜田門外の変)。
井伊直弼は彦根藩主、井伊掃部頭(かもんのかみ)直弼とも称しています。
吉田松陰と松下村塾
吉田松蔭が主宰した松下村塾の塾生には、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋など、幕末~明治に活躍した人物が多くいました。桂小五郎(木戸孝允)は松下村塾の塾生ではありませんが、明倫館で松蔭に教わっていました。
安政の大獄と西郷隆盛
勤王派の僧である月照も安政の大獄で幕府から追われるようになりました。西郷隆盛は自身の恩人でもある月照を保護しようとしましたが、薩摩藩では月照の追放を決めてしまい、西郷は月照と入水をし、西郷のみが助かりました。
尊皇攘夷運動
幕末には尊王論と攘夷論が結びついた反幕府運動=尊王攘夷運動が高まります。
・尊王=天皇(朝廷)を尊ぶ
・攘夷=外国人を排除する
幕府は朝廷との結びつきを強める公武合体策を進め、天皇の妹である和宮を14代将軍家茂と結婚させます。
薩摩藩は1862年にイギリス人を殺害する生麦事件を、翌年薩英戦争が起こります。
長州藩は1863年下関海峡の外国船を砲撃(下関戦争)、翌年イギリス、フランス、オランダ、アメリカの四国連合艦隊に砲撃されるという事件が起こります。
江戸幕府の終わり
15代将軍慶喜は政権を朝廷に返し、旧幕府軍と新政府軍が戦って負け、江戸幕府がついに終わりを迎えます。
薩長同盟
1866年、西郷隆盛(薩摩藩)と木戸孝允(長州藩)が坂本龍馬(土佐藩)が仲介して同盟を結びました。
長州藩は尊皇攘夷を掲げていたものの朝廷の敵と見なされ、下関戦争や長州征伐では外国や幕府、新選組からも攻撃されるという状況でした。薩長は犬猿の仲でしたが、幕府と長州が戦うときは薩摩藩が長州藩の味方をする、という同盟を結びました。
薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通、長州藩の木戸孝允(桂小五郎)は明治維新の三傑と呼ばれています。
大政奉還
15代将軍徳川慶喜は、朝廷に政権を返します。これを大政奉還(たいせいほうかん)と言います。(慶喜は後に貴族院議員にもなります。)
年号語呂合わせ
嫌だろうな(1867)、慶喜将軍大政奉還。
大政奉還と同年、王政復古の大号令が出され、朝廷が天皇中心の政治にすることを宣言しました。
戊辰戦争
1868年、新政府軍と旧幕府軍の戦いが始まりました。1869年に旧幕府軍が降伏しました。
・鳥羽伏見の戦い → 江戸の無血開城、勝海舟(幕府軍)-西郷隆盛の間で決められました。
・東北戦争
・会津戦争
・五稜郭の戦い
【問題編】江戸時代の終わり(ペリー来航~幕府の滅亡)
問1 1853年、アメリカの使節ペリーは開国を求め、黒船を率いて来航しました。来航した場所はどこですか。
答えを確認問2 1854年、日本がアメリカと結んだ条約を何といいますか。
答えを確認問3 問2の条約で開港した場所を2つ答えなさい。
答えを確認問4 1858年、幕府がアメリカと結んだ条約を何といいますか。
答えを確認問5 問4の条約では( ① )を認めたこと、( ② )がないことから不平等条約と言われた。
答えを確認問6 問4の条約で、5つの港が開港することになりました。5つの港をすべて答えなさい。
答えを確認問7 開国の影響で金が流出、万延小判が発行され、国内経済の混乱を招きました。この時代物価はどうなりましたか。
答えを確認問8 1858~1859年、井伊直弼が幕政に反論する者を厳重に処罰しました。これを何といいますか。
答えを確認問9 安政の大獄で処刑された、吉田松陰の私塾の名前は何ですか。
答えを確認問10 1860年、井伊直弼がもと水戸藩士に暗殺された事件を何といいますか。
答えを確認問11 皇女和宮を将軍の夫人にするなど、幕府が朝廷との結びつきを強めて権威を取り戻そうとした政策をなんといいますか。
答えを確認問12 薩摩藩が大名行列を横切ったイギリス人を殺害した事件を何といいますか。
答えを確認問13 1866年、薩摩藩と長州藩が結んだ同盟を何といいますか。
答えを確認問14 問13の仲立ちをした土佐藩出身の武士は誰ですか。
答えを確認問15 1867年、将軍慶喜が朝廷に政権を返したことを何といいますか。
答えを確認問16 問15に対し、朝廷が天皇中心の政治にすることを宣言したことを何といいますか。
答えを確認問17 新政府軍と旧幕府軍の一連の戦いを何といいますか。
答えを確認問18 問17の戦いで、最初の戦いを何といいますか。
答えを確認問19 江戸城の無血開城は薩摩藩の誰と幕府軍の誰の間で決められましたか。
答えを確認問20 戊辰戦争の最後の戦いを何といいますか。
答えを確認まとめ
ペリー来航以降、大政奉還、戊辰戦争で幕府が滅亡するまでの歴史を確認してきました。
ペリー来航からほんの十数年で幕府が滅亡、江戸時代は平和な時代が続いたと言われていますが、幕末はまさに激動の時代でした。
開国によって幕府の弱体化が明るみに、経済の混乱を招いて庶民の不満も高まります。
幕府への不信感は尊皇攘夷論に、幕府も公武合体策を練りますが、大政奉還、戊辰戦争と続き、長年続いた江戸幕府はついに幕を閉じることになります。
次の単元
明治時代に進みたい方はコチラから
社会の目次はコチラ→