18世紀末~19世紀のヨーロッパ・アメリカについてまとめました。
イギリスから始まった産業革命、資本主義と社会主義、イギリス、ドイツ、ロシアの動き、アメリカの南北戦争について確認していきます。年表で流れを確認、基本事項を覚えられたかチェックするための、一問一答問題も準備しました。
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18世紀末~19世紀の欧米【年表】
18世紀半ば イギリスで産業革命が起きる
1775年 アメリカ独立戦争(~1783年)
1776年 アメリカ独立宣言
1789年 ワシントンがアメリカの初代大統領に
フランス革命
1796年 清がアヘンの輸入を禁止
1804年 ナポレオンが皇帝に
1812年 ナポレオンがモスクワ遠征
1814年 ウィーン会議
1830年 フランスで七月革命
1840年 (~1842年)アヘン戦争
1842年 南京条約
1848年 フランスで二月革命
1851年 太平天国の乱
1853年 クリミア戦争
1856年 アロー号事件
1857年 セポイの反乱(インド)
1861年 (~1865年)南北戦争
1863年 リンカーンが奴隷解放宣言
1871年 ドイツ帝国建国
1882年 三国同盟(ドイツ、オーストリア、イタリア)
1884年 清仏戦争
1891年 露仏同盟
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産業革命と資本主義
産業革命は18世紀後半のイギリスから始まりました。産業革命の結果、資本家と労働者を雇い、自由に利益を上げることができる資本主義経済が発展しました。人々の生活が豊かになる一方、問題もありました。
産業革命
産業革命とはわかりやすくいうと、技術革新による経済や社会の仕組みの変革を指します。
18世紀後半のイギリスにおいて、それまで手工業だった綿工業が、ワットが改良した蒸気機関により工場での大量生産(工場制機械工業)が可能に、産業が大きく発展しました。
蒸気機関とは(当時は)石炭でお湯を沸かし、その蒸気による圧力を動力にするものです。
スチーブンソン(蒸気機関車の父)が蒸気機関車を鉄道として実用化、製鉄や機械、造船、武器などの産業も発展していきます。19世紀にはイギリスは大きく発展、世界の工場と呼ばれるようになりました。
19世紀後半にはアメリカやドイツでも重化学工業中心の産業革命(第二次産業革命)が起きました。この産業革命では石炭に代わり、石油や電力が主役になります。
資本主義
産業革命により、資本家が労働者を雇って自由な生産や取引をする経済の仕組みが広がりました。このような自由競争ができる経済の仕組みを資本主義といいます。
ものが豊かになり、生活が便利になる一方、長時間労働や貧富の差といった問題も起こりました。
社会主義
ドイツのマルクスとエンゲルスは資本主義を批判、私有財産を否定し、資本家のいない社会を目指しました。この考えを社会主義といいます。
19世紀ヨーロッパの動き
19世紀のヨーロッパの動き、イギリスのアジア侵略について確認します。
イギリス・ロシア・ドイツの動き
イギリス | 世界経済の中心 二大政党政治(保守党と自由党) |
ドイツ | ビスマルク(鉄血宰相) → 富国強兵政策 |
ロシア | 南下政策 → クリミア戦争(1853~1856年)で敗北 → 農奴解放令(1861年) |
19世紀、イギリスは世界の工場と呼ばれるほど世界経済の中心に、自由主義の思想が広がり、二大政党政治が行われるようになりました。
ドイツでは鉄血宰相と呼ばれたビスマルクが富国強兵政策をとります。
ビスマルクは愛妻家だったそうです。
ロシアでは南下政策が進められていました。ロシアとオスマン帝国の間でエルサレムの管理権をめぐり、黒海北側にあるクリミア半島を主戦場に戦争が始まります(クリミア戦争)。オスマン帝国側にイギリス、フランス、サルデーニャ王国がつき、ロシアは敗北します。
南下政策が頓挫したロシアの皇帝アレクサンドル2世は1861年に農奴解放令を出し、近代的社会への改革を目指しました。しかし失敗に終わります。
クリミア戦争のときにイギリスの看護婦、ナイチンゲールが派遣されました。
三角貿易とアヘン戦争
18世紀頃、イギリスは清から茶、絹を輸入し、綿織物を輸出していました。しかし綿織物は清で売れなかったため、赤字分を清に銀で支払いました。
19世紀にはイギリスが支払わなければならない銀が不足、そのためイギリスはイギリス・清・インドの間で三角貿易を行うように、銀が不足しないようにしました。(アヘンは密輸、東インド会社が関わっています。)
この影響でアヘン患者が清で増えたため、アヘンの輸入を禁止しました。イギリスは1840年に清に艦隊を送り(アヘン戦争)、清は敗北します。
1842年の南京条約で、イギリスは清から香港を譲り受けました。清には関税自主権がなく、領事裁判権を認めさせられました。
アヘン戦争のことは徳川幕府の耳にも入っていました。
清ではアヘン戦争後、賠償金の支払いのため、重税の負担が農民にかかりました。1851年に洪秀全を指導者とする太平天国の乱が起こり、太平天国が建てられました。
アメリカ南北戦争
アメリカの独立後、北部の州と南部の州が対立していました。
北部 | 南部 |
資本家が中心
工業が発展 |
農場主が中心
プランテーション |
奴隷制度廃止
保護貿易 |
黒人奴隷制度を維持
自由貿易 |
北部では19世紀に工業と商業が発達、アメリカの産業を守るためにもイギリスからの輸入品に関税をかける保護貿易を主張しました。また労働力確保のためにも黒人奴隷の解放を主張しました。
南部では綿花栽培中心の農業が行われており、イギリスに輸出して経済が成り立っていました。そのため保護貿易には反対の立場で、労働力となる黒人奴隷の解放にも反対していました。
1861年に南北戦争が起こり、北部出身のリンカーンが大統領は奴隷解放宣言を出しました。
ゲティスバーグでの演説で「人民の、人民による、人民のための政治」と述べました。南北戦争は北部が勝利しました。
【問題編】中学歴史 産業革命と19世紀の欧米
問1 18世紀後半、イギリスでは工場での機械生産により生産性が大きく向上、経済・社会の仕組みが大きく変化しました。このことを何といいますか。
▼答え問2 イギリスで起きた問1は、蒸気機関の改良によりもたらされました。この蒸気機関の改良は誰によってなされましたか。
▼答え問3 19世紀のイギリスは世界の何と呼ばれましたか。漢字2字で答えなさい。
▼答え問4 資本家が経営者となって労働者を雇い、利益を自由に得ることができる経済の仕組みを何といいますか。
▼答え問5 ドイツのマルクスやエンゲルスは資本主義を批判、資本家のいない社会を目指しました。彼らのような考えを何といいますか。
▼答え問6 19世紀のドイツでは、鉄血宰相と呼ばれた人物が、富国強兵政策を進めました。この人物の名前を答えなさい。
▼答え問7 18世紀後半より、ロシアでは地中海や黒海、中央アジアや東アジアに進出しようとする動きがありました。この政策を何といいますか。
▼答え問8 エルサレムの領有権をめぐり、ロシアはオスマン帝国やイギリスと戦い、敗北しました。この戦いを何といいますか。
▼答え問9 下の図は19世紀に行われていた三角貿易を表しています。ア、イにあてはまるものを答えなさい。
問10 1840年、イギリスと清の間で起きた戦争を何といいますか。
▼答え問11 1842年、南京条約でイギリスは清からどこを譲り受けられましたか。
▼答え問12 アヘン戦争後、清で洪秀全を指導者とする反乱が起きました。これを何といいますか。
▼答え問13 19世紀アメリカ南部で生産されていた、主な輸出品は何ですか。
▼答え問14 19世紀、アメリカ北部では保護貿易と自由貿易のどちらが主張されていましたか。
▼答え問15 19世紀のアメリカで奴隷制に賛成していたのは、アメリカ北部と南部のどちらでしたか。
▼答え問16 1861年に起きた、貿易や奴隷制をめぐるアメリカの内戦を何といいますか。
▼答え問17 問16の戦争が起きたときの大統領は誰ですか。
▼答え問18 問16の戦争で勝利したのは北部と南部どちらでしたか。
▼答え問19 問16の戦争中に南部の州が連邦に復帰しなかったため、リンカーンが出した宣言を何といいますか。
▼答え問20 下の文章はリンカーンが演説で語った演説の一部です。( )に適切な語句を入れて完成させなさい。
人民( )、人民( )、人民( )政治
▼答えまとめ
19世紀ヨーロッパとアメリカについて見てきました。
18世紀末の産業革命でイギリスは世界の工場と言われるほど、世界経済の中心になります。インドや清と三角貿易を行い、アヘン戦争で清を屈服させました。
アメリカでは南北戦争が起き、リンカーン大統領が奴隷解放宣言を出しました。保護貿易を主張していた北部が勝利します。→演説の一部、「人民の、人民による、人民のための政治」
ドイツではビスマルク宰相が富国強兵政策をとりました。ロシアでは南下政策がとられますが、クリミア戦争で敗北し、国内では国家の近代化が必要という声が上がります。